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善悪の彼岸を読んでいて思い浮かんだこと

*去年にメモしていたのだが、その後省みることなく放置していたので
*まとまりが悪いけれど放出してしまおう。忘れ去るよりはちょっとましだろう。


読んで思ったのは、哲学者、または哲学への素養ある人間に
向けての言葉が多いこと。また同時に、そして自然にキリスト教的、
聖書的考え、(西)ヨーロッパ的考えが自然にそこに存在しているということ。

それら哲学や信仰を持った人間であればまた違った意味合いを、というよりも
そういう人間にとっては意味のある言葉だろうと思われるのだが、
そういった素養のない身としては読んでてぴんとこないところが多すぎる。

これから発展して、日本人が西洋の哲学主軸として学ぶのはいかに
難しいかを考えざるをえない。つまり、西洋で発展した哲学は
キリスト教と、聖書深く結びついている。よって、それら哲学をテキストと
して学ぶならば、それは聖書やキリスト教が根付いた社会において
発展された考えであることを考慮に入れる必要がある。

アリストテレスなどに遡り、そこに焦点をあてるならともかく、
近代の流れなどを踏まえるのならそれを無視することはできないはず。


このキリスト教圏以外で育った人間がいわゆる(西洋)哲学に踏み込むには
高い障壁といわばあちらへの迎合が必要と思われる。
その迎合の後に、自身の育った文化からの独自視点などがいまだ残りえている
のであれば僥倖だろう。しかし、彼らキリスト圏における社会から
生み出されたものというフィルターを忘れ、あちらの考えに沿って
発展させようとするのなら、そのキリスト教圏以外で育ち
哲学を志した人間にとって自身の生まれはマイナスでしかないだろう。
なぜキリスト者でないのだ!と嘆いている文章が出来上がるだけでないか。

ある考えが生まれた文化・社会環境を踏まえ、自身のそれとの対比と認識が
常に必要なのではないだろうか。

そのもとで、ではなぜこれを読むのか。
つまるところ、いわば人にとって普遍的何かを求める故にか。
実際に、これはキリスト者にしか当てはまらない、
という考えで占められてはいない。
もし聖書の知識がもっとあり、ニーチェ以前の(直前でもいいが)
哲学者に対する知識があり、キリスト圏において生きていたなら
もっと意味のわかる文章が増えただろうに、という愚痴なのだろう。

そうでない立場からの視点もおもしろみを出すのだが、
被害妄想かそれこそ知識と認識の不足か、
聖書的知識が前提とされているものが目に付きすぎて困る。

まあ、そういう本だと読む前から薄く推察は出来ていただろうに
なにをかいわんやでもあるが。

言ってみればあたりまえのことを再確認しているだけではあるが、まあ、めも。

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