« 〈本の姫〉は謳う2 | トップページ | 東方SS読んだ 地の文(注・やおい)ほか »

言葉に出さないこと

 直接に関係はないが、以下二つの言葉に最近でくわした。

ネットの出口に必要な、けどささやかなこと :: 技術と人 (少年少女科学倶楽部)

間違ったっていいじゃん。何か言いたいことがあったら、それこそTwitterにポストしてセルクマでいいじゃん。  どんどん出していこうよ。  一つ一つは小さくてたいしたことない。でも、その蓄積が大事なんだからさ。

「黄金国」からのコメント (ガメ・オベールの日本語練習帳)

わっしは日本の人の9割は、まともどころか、たいへん知性的であると知っています。
バルセロナでも、礼儀正しくて知的な態度であると「日本人か?」とまず訊くようで、ここにすんでいる日本の画家の友人が喜んでいました。
しかし、まともなひとたちが沈黙しているので、外国人から見ると、現実とはまったくかけ離れた印象に見えてしまう。
ガン細胞は放置しておくと社会全体をくいつくしてしまいます。
ニュージーランドでも当然へんな奴はいますが、これらが「アジア人はXXだ」というようなことを書くと、ほんとうに何十倍も「いい加減にしろ」「恥を知れ」「おまえが出て行け」というような「まともな層」からの反撃があります。
ポーリン・ハンソン(オーストラリアの反アジア人政治家)の事務所にいたってはすさまじい数の人があらわれて物理的に叩き壊してしまった。このひとたちはテレビカメラが回っている前で堂々と事務所を破壊しながらテレビにこたえて「こういう人間こそがオーストラリアの恥だ」と言ったりしておった。

 この二つはたぶん日本人について同じことを言ってるのだろうな。
 言葉に出さない。馬鹿がいると思ったとき、自分以外のみんなも等しくそいつが馬鹿だと思って“嫌っていて”、当人も“間違っていた”ことに気がついていつか消えていくはずと思う。けれど自分が触れることはない。言葉としても物理的にも。婉曲的な何かはやったりするけれど。いわゆるまともな人ほどそう。

 けれどそれも悪いことばかりではないのだ。誰も自分がバカと思う対象に触れたくなんてないし、馬鹿の価値観で逆恨みなんてこうむったらそれこそ馬鹿にならない。どこかで誰かがものすごいよい評価を下す自分には理解できない素晴らしいものである可能性だってあるのだ。下手に批判して、いつか自分に批判の的が来たらどうするというのか。なにより今までずっとそれでなんとかなってきたのだ。

 言葉に出して、表に出して、それで他者に判断してもらうという、たぶんgoogleの根底にある(つまりは欧米の人々の根底にある)意識との違い。多種多様な意見を表明することができ、それに誰もが触れることのできる状態を理想とする考えとの違い。その理想的な世界は、各個人が自身の意見を持ちそれを表明することによって成り立つ。黙っていても誰かが自分の意見を汲んでくれるなんてことはなく、表に出さなければどうにもならない。侃侃諤諤と意見が出されて闘わされて、しかしその状態が健全であるという考え。(ゼロかイチかになるはずはないからこれも偏った理想だが、しかしそれはおいておく。)

 ネットの普及によってだれでも全世界に(ネットの普及してない地域には届かないし言語の壁もあるが)自分の意見を表明できるようになったという状況は、より欧米的価値観に適しているのではないか。言葉に出さず意見を共有できるということは言葉以外の情報がそこにあるときによりよく働く。しかし、言葉しか情報を伝えるものがない世界ではとても難しい(そういう意味でニコニコ動画は日本人に“あってる”ように思う)。

 その状況に合わせて日本人も変わってきている。しかし、リンクで示したような傾向は今なお残っているのだろう。いわゆるまともでない人の行動も今のネット社会に合わせて変わってきて、全世界にメッセージを発している。けれど、反発してのいわゆるまともな人の行動が弱い。これは世界からどう見えるか?表にある情報しか判断材料がなければ日本はどう見えるか?まともでない国と見えるのだ。

|

« 〈本の姫〉は謳う2 | トップページ | 東方SS読んだ 地の文(注・やおい)ほか »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 言葉に出さないこと:

« 〈本の姫〉は謳う2 | トップページ | 東方SS読んだ 地の文(注・やおい)ほか »