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比較文化論の試み

 比較文化論の試み
 著:山本七平  講談社学術文庫

P.19

 「なぜ、そういう考え方をするのですか」と問いますと、「そうなのだから、そう考えるだけだ」という返事しか返ってこないのです。
 としますと、その人にとって、この考え方は、世界のどこででも、またいつの時代にも、絶対に反対される気づかいのない「普遍的な真理」になってしまいます。
 こうなりますと、それを、そういう文化的伝統のない社会の人が見ますと、「ひとりよがりで同情心がない」ことになります。

P.22
 私自身覚えがあることですが、フィリピン人が言うには、日本人というのはアジアの解放とかなんとか言ってやってきたが、だれ一人「あなたたちのために私たちにできることがありますか」と聞いた人間はいないというんです。他人のために何かしてやってるつもりなんですけれど、そのような聞き方をしない。

 自分自身の常識がどこから生まれたのか認識しましょう、常識は常識とすますなら日本人同士でならまだなんとかなっても世界じゃ鼻つまみもんですよって本。そんな風に認識した。200年ほど昔の日本人だけで物事がすんでいたときならばそれでよいが、日本人だけで完結しなくなった状況下では、感じ方の違いがどのような理由で生じたか(特に自分自身がなぜそのように感じるか)を認識していなければ、世界とまったく分かり合えない。

 本文のはじめ10ページほどを読むだけでも世間への認識が多少変わる。世界ではなく、世間の広さでも十分に実感できる。確かにこれは日本人だと納得でき、そして確かに問題点だとひとつ認識を得ることができる。最後のほうになってくるとなに言ってんだかよくわかんなくなってくるけれど、途中までなら言いたいことはわかりやすい。後半にセム族文化を持ち出してくるが、世界と日本人ではなく、日本人同士の間にもこの本の内容は成り立つようになったんじゃないかと思える。

 また、セム族はなんでも一に還元しないと気がすまない、という言葉から思うに、むしろなんでも白と黒に分けやがるってのは日本人がそうとしか見れないからなのかもねと反省。善悪二元論として、向こうの人は何でもかんでも二つに分けたがるとよくよく言うものだが、日本人のいう2つにわけると、あちらの2つにわけるは意味が違うのか。

 一人の人のなかの善悪二つという見方と、一人の人が善と悪のどちらであるかという見方。あちらは対立する二つが一個人のなかで常に混ざっているという見方のために、そのため常に善と悪の二つを持ち出して物事を見る。それに対して日本人はその人が善か悪かと一個人を一色に染めてみてしまう。ものごとは白と黒じゃない、混ざった灰色だと主張しながら、実は一番ものごとを二つだけにわける傾向がある、のかも。

 自分自身、および日本人を眺めるになかなかおもしろい本だった。

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