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2009年11月の4件の投稿

日記:勘違いと趨勢の決定について当て推量

 清水文化のSDからの新シリーズの絵師がくじびきアンバランスの人なのについ吹き出してしまった。いや、だって、ねぇ。……とwikipediaで眺めながらなんか違うような気がした。違った、まじかるアンティークと混同した。くじびきの次の絵師が、、ではなかった。吹き出した理由はあんてぃ〜くシリーズにどうこう言われてたもとの絵師を持ってきたかという理由だったが、混ざった。笑った理由が古い上に勘違いだ。なんてこった。それにくじびき最新をまだ読んでない。

 NECがインテルと組んでスパコン関連の何かはまだやるつもりらしい。
インテル、スーパーコンピュータ向けプロセッサの開発を発表--NECとの提携も
ベクトル型を諦めていない、また、最近のCPUの中身が実際はベクトル化での計算、ということを狙っているのだろう。資産を活かせる。もっとも、当面は本格的にベクトル型スパコン狙ってというわけではなさそうだが。技術的に優れていて、そして中身に関してはそのもので、しかしならばなぜ世界の趨勢は別に行ったのか?個人的には、コストと使い安さかなと考えるが。ソフトウェア関係でよくみられる傾向、使いやすさを提供すればその上でなにができるかは他の誰かが考え出してくれる、ではないかなとあてずっぽうに考えているが、さて。

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感想:フリー 〈無料〉からお金を生みだす新戦略

 フリー ~〈無料〉からお金を生みだす新戦略
 クリス・アンダーソン (著), 小林弘人(監修・解説) (監修), 高橋則明 (翻訳)

 クリス・アンダーソン氏著書『フリー』全文を発売前に無料公開 (CNET Japan)
で見つけたので読んでみた。この文章を打つたびに横で微振動を起こしている積み本タワーがあるというのに。しかし、これがつまりは無料の効力、とも言えるかもしれない。また、フリーに対し、自由、無料という二つの意味で捉えようとするあたりにこの本の意図がかなりあると言ってもよいかもしれない。

 無料でありながらどこで儲けるかという点では、無料の製品といっても、結局どこかでは金を取る。それがどこか、という点。無料にした(海賊版含む)効果で潜在顧客のパイを増やして、それでどこかで金を取る。どこ、というのが、まあ、ものによる。このあたりは、特に斬新ってわけではない。最近のweb関係で無料ビジネスが流行って見えるけれど、実はずいぶん昔からその手法はずっと使われてきた(ひげそりの替刃とかゼリーの売り出しの初期とか)という歴史は、いまが特異ではないという説得になっておもしろい。web上での無料に対しては、広告だけではなく、フリーミアムとか言われている、一部の有料版で儲けるスタイルが必要というのに大体の結論が向かっているのかな?ニコニコ動画のプレミアムのような。

 基本として、無料であることの心理的効果とかそんなんで人を集めて、特にwebは一気に人を集めることができるから、一部の人の支払いでまかなえる、とかそんなんか。無料によって評判と注目という別の価値を高めることができ、それが最終的に現金になって(無料にしない場合より大きくなって)返ってくる。だから、短期的ではなく、トータルでみればフリーな商売も十分成り立つのだ、歴史も実は長いのだと解説する。利益を得る場と、利益に結びつく何かを集める場を別に分離しているのだ、ともまとめることができるのかな。でもって、この無料化の流れも必然だ、とも。

 ただ、率直にいって、どうもうさんくささを禁じえない。一部の例は、最初から大きなパイだとか、今の無料にするということが注目を集める時代というのに依拠していないかとか疑念がある。他にも例えば後半のフリーに対するよくある質問への皮肉交えた回答のなかで、紙媒体のコストに関して議論しているときに、もっとも重要な、その記事の中身の作成にかかるコストを計算に入れない、とするのはどうしてだろう。その点が最も重要であって、無視できない点だろう。webでの公開において記事の制作に関わる人件費以外はほとんどタダに等しくなる、だから無料が成り立つ、という言葉では同意できない。それにMSの話は独占による、それを使わなくてはならないという強制もある、とか言っている。なのにそれとピザ屋の話を同列に並べて同じだと説得するのは、どうも詐欺っぽく思える。

 なーんか、うまくはぐらかされている気が、どうしてもぬぐえない。だいたいの部分で同意できてうなずいて感心するけれど、細かな部分で正直ではないという印象を受けてしまう。特に最後あたりのQ&A。評価の軸をすりかえて答えているように感じてしまう。金銭的にどうこうという質問に、評価と注目という新たな価値を得ているのだというのは、それはちょっとすりかえでないか。結局、現金としての儲けまでに間接的な経路が一つ入る、というだけとも言いたいのだろうが。なんかな。結びで、不況に突入でweb企業にとって、最後どこかの大きな企業に買収されるという将来が厳しくなった結果、評判と注目が現金に換わるメカニズムがなくなったとか言ってしまっている。なのに、結び以前の文章で評価と注目という価値に重きを置いているあたりも、なんかな。いや、一つの基準ですべての業界や商売見れる単純なものではないとわかるけれどさ。

 
 などと疑問と不満を言いつつも、現状を再認識するという点でかなりわかりやすいと思った。人(消費者)は稀少さしか理解できない。持っていないものによって突き動かされている。など、人の心理や経済などと無料化を絡めているのも、無料につられる心情というあたりに特に、説得を感じる。


 ところで、今はある意味、情報としてのモノがあふれている社会といえる。だから、物理的なものがあふれ出した時代に、その時代の微分を試みて考察した本の言葉は、今の時代の物理的でないものがあふれる時代にも、同じか、または物理的なものへの考察の正しさ分が加味された、説得力を持つんじゃないか。
 なんかそのあたりの哲学書探してみるのもおもしろいかな?

 あと、東方なんかもこのフリーってやつの例だな。目に触れる機会がとても多いがゆえに、その周辺で利益を得る機会が多い状況になっている。それで考えると、イベントの価値は単に金銭的だけでなく存在してもよいわけだから、あれだけイベントの数が多い理由にもつながりえる?

 そういえば、ニコニコ動画でひろゆきは、モノやサービスを受け取る当人ではなくて、モノやサービスを生み出し提供する当人から金を取ろうって発想をどこかで言っていたような気がする。この視点、おもしろいよね。たぶん、生放送がそうなっていると思うけれど、5%の枠を超えるかもしれない。

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日記:技術の白旗宣言

 かつて地球シミュレータで一躍躍り出たのが時代の流れを読めずにまったくの低迷に陥り、再度逆転を目指したのがリーマンショックと政権交代で止めを刺された。最大の敵は同業他社ではなく国である、とはね。リーマンショックで日立とNEC抜けてベクトル型を諦めたのはむしろよい方向に向かうのではと思っていたが、予算でないとなると富士通も完全撤退しかねないのではなかろうか。SE系の好調に支えられて身を削ってた感を富士通に見るのだけれど、大丈夫だろうか。

次世代スパコン「予算削減」 事業仕分け3日目 ( asahi.com )
● この事業仕訳手法はアメリカ人には話せない ( Cheer! High Performance Computing (HPC) )

 技術立国を諦める、というのならそれも選択の一つだろうが、ではどうやって生きていくか。
「コンクリートから人へ」とはいうけれど - 池田信夫 ( アゴラ )

先日、あるシンポジウムで佐々木俊尚氏が「もう日本のITの競争力をどうするかという時代は終わった。内外の実力の差が大きすぎるので、これからは外資の参入をいかに防ぐかだ」といっていました。

という現状で、なにで生きるのか。政府はなにか、方向性を出せるのか、期待しないで見ておくか。選択と集中といえば聞こえはよいが、なにに集中するのか、戦略がわからんね。今既に大きな競争が始まっているものに集中するというのは、あくまで次善の策だしなー。

 ただまあ、国としては期待が持てないが、日本の大企業は勝手に変わっていくことができるかもしれない。売り上げの大きさではなく、利益の大きさを追求するようになれば、雇用人数や会社規模は小さくなっても、優良企業として生き続けることができると思う。

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日記:儚月抄の文章はいつでるのだろう

 精神的に余裕がないので時間的な余裕はあるけれど更新がまったく途絶えるのではないだろうかと考えてみる。余裕がないときにすがるものがここの更新ではないのだろう。前は本を読むことやクーリエいってSS読むのが逃避先だと考えていたが、どうも最近はニコニコ動画ばかりのようだ。

 ところで、東方儚月抄の文章のほうはいつ出るのだろうと、東方wiki行ってスケジュールに書いてないかなーと眺めてみたらイベントの数の多さに笑ってしまった。いやすごい。毎週どこかで開催ってのに届こうかって勢いじゃないか。小説版の発売日は見当たらなかったけれど。んー、東方キャラの、そしてまた幻想郷の設定を楽しむ点で小説版がでないのは東方儚月抄を楽しむに片手落ちだと思うのだがなー。単体で出すには薄すぎるのも確かではあるが、なんとかならないものか。

 儚月抄はおいといて、イベントについて。ここしばらくネガティブ思考に陥っている自分としては、何件かは失敗とか参加者からの不満爆発とかこれだから東方厨はと一部の人が喜ぶような事態になるのかなと考えた。細かなトラブルは絶対に出て、もうやるなという声だって出ると思う。だから、どう対応して経験値ためれるかになるかなと。

 ただ、同時に、その不満が次の改善につながるのなら全体としてはありになるかなとも。東方という入り口はともあれ、同人やイベントごとを知る人が増えるのは状況の認知が広がる意味でよいのかもなとね。でも東方がある意味普通になりすぎて、同人という枠の理解に寄与するに異質になりすぎているかもしれない。同人じゃなくて、東方というくくりでだけ理解されるようになっているのなら、「全体としてあり」というのは、はまらなくなってしまう。


 それはまたさておき、自分は最近SSも同人誌も触れる時間が少なくなってしまっているので同意にも否定にも躊躇するけれど、


実際、新作になればなるほど、関係性だけでストーリが作れないのかエロ同人が多くなっているし、古参の人は相変わらず「三部作」の方ばかり描いている。

今更だけどBLUE DROPってマンガが超面白かった (適応係数17)
というのはなんとなく気になる。どうなんだろう。「関係性だけで」というのは頷くところで、東方同人はいまそこにあるキャラクター間の関係が(少なくとも量的に)一番の料理の材料だなとは思っている。時間軸を入れて過去や未来を描く場合も、まずキャラクター間の関係を同人著者が確定して、それから始まってるなーと。幻想郷の設定、妖怪と人間、それら世界設定はあくまでおまけ。そこにあるのは、なんだかんだで人間同士の関係で、、という。自分自身の見方として、とあらためて一応逃げを打っておくけれどね。友人にSS書こう言われて、じゃあまずどのカップリングで行くか決めようかと返すような頭の人の見方。「キャラ」じゃねーのね。

 新作ほどエロ同人が多いのだろうか。見てる範囲がせいぜいクーリエだから、なんとも。新作も素直にだいたいいつもと同じような時間経過で量と内容の変化が起きてるよなーと9、10月くらいにざっくり思っていたくらいでそういう観察はなかったなー。同じようなというのは、自分の観察ではクーリエの場だと新作キャラの扱いは、とりあえずの登場、共通の理解に向けてこのキャラはこう扱ってもいいかどうかという手探り段階、設定に踏み込んでの物語という段階を感じるけれど、今回に限ってその段階を踏み外しているという感はなかった。

 ただ、ずっとその場にいる人間は緩やかな変化を感じることができない。だから、暫定かな。また、ニコニコ動画に入り浸っている割にそちらでどうかという考えが頭に浮かばないし。
 ところで自分はどうしてこういう文章を書くにいたったのか思い出せない。そしてまた、やはり本を読まなくなった影響があるように思えてならない。文章や言葉がなんか、いつも使っている言葉で固定されている感がある。むむ。

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