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2009年12月の2件の投稿

あなたのための物語

 あなたのための物語
 著:長谷敏司  ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション

 まいった。おもしろい。しかし、これ、物語というものに対してメタだよね。

 最初に気に入らなかった点を並べておこう。文章がたまにひどく読みにくい。劇的なシナリオの展開、転換で驚きと興奮を与えるものではない。

 けれどもおもしろいのだ。舞台となる世界でできるようになったこと、それによってたつ思考がおもしろい。技術と社会の変化、今と変わらないもの、今からの妥当な延長の絡み合いが大変におもしろい。また、物語という点がいまと共通する。人がその人であるための物語、娯楽としての物語の読み手から一瞬でも「言語を奪う」という価値を、死に向かう主人公を通して描かれる。死に向かう主人公の物語によって人の姿と向かいあう。在り方を見せ付けられる物語がおもしろいのだ。

 そして以下まとまりのないあらすじ紹介的感想の垂れ流し。
 舞台となる時代で可能とされている事柄は、いってみればナノマシン万能で脳神経も人が扱えるようになった、ということ。それによってひとつの人格を作り出し、それに物語を書かせる。作られた人格が創造性を持つか否かの検証であり、主人公はその開発におけるトップ。ところが突然に遺伝を原因としたその時代ではまだ不治の病を発病し、余命が長くて1年と宣告される。

 突然に余命が1年となった主人公はあがく。現在への抵抗が自身の行動原理であり、ストレスが限界を超えると非論理的な行動を選択する主人公は、仕事のみにしか生きられなかった主人公は、静かに何もせず病院でまたはどこか療養の地で静かに人生の最後を迎えるという選択をとれなかった。

 主人公の病による苦痛、自分が維持できない苦痛、なぜ自分が死ななければならないのかという恨みが描かれ続け、死に向かう姿が描かれる。同時に、作られた人格の彼(wanna be)は物語を作り続け、彼の姿を通して人間のあり方、物語のあり方が描かれていく。

 脳神経を扱うことができるということは、人間という存在がデータとして作り出せる境地に至った世界でもある。人の経験も知識も人格も、脳の神経のつながりでしかないとなれば、そのつながりを誰かの脳のなかにコピーすれば、その誰かは違う誰かになることができる。これは知識と経験が個人の所有物でなくなり、人格さえも個人の識別にはならない世界に到達できる。個人として多数が存在する意味のない世界。膨大な蓄積をデータとして扱い、テンプレート化すれば、自らの望むどんな人間にでもなれる。だからこそ個人に価値がない。なろうとすればどんな人間にでもなれるのならば、他人と違うことに意味がなくなる。

 そんな世界で、だから物語が必要になる。個人が個人であるのにはそうあらせる物語が必要になる。物語のない人間は自分自身が存在しなくなる。主人公はこの研究の最前線で、そして現在できないことへの不満と抵抗から、人間ができないということへの抵抗から、ITP人格を使いなんにでもなれる人間という存在を描くことができた。自身を実験台にし、病の苦痛から逃れるために脳に楽天的な人格をいれ、一時的に楽観的な人間になってみた。それによってしかし物語がなければ個人の価値がなくなることを認めた。あなたのための物語は、そんな主人公に対しての彼が贈った物語であり、主人公のための物語である。

 作られた彼は物語を作ることのみを目的とした道具である。世界の名作とされる物語をデータとして吸収し、主人公のための物語を作り続ける。物語の立場と役割を認識し、物語は必ず誰かには嫌われるものだと述べる。物語は好きか嫌いかであり、全員に好かれるのがありえないならば、必ず誰かには嫌われる。だから拒否されることはかまわない。メタってると思わざるをえない。なぜ小説を書き続けるか、物語を贈り続けるかを吐露しているようにしか思えない。

 ところで大変なことに気づいた。長谷なのにロリキャラがいない。幼女がいない。

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日記:大なり小なり

 限定的な時事ネタ。

 ニコニコ動画の毎時見たらびっくりさ。東方で毎時に載る動画はたいがいチェックしてるので、一応クリック。うぷ主とおぼしきタグの名前に見覚えがなかったのだけれど、大百科で掲示板も眺めて、大体どの動画の人が扱われているか目処がついた。

 これからどう発展するかや、その動画自身はどうでもいいけれど、似たようなことはどこでも起こってるなーと(絵師への侮蔑発言やなりすましではなくてね、念のため)。大雑把に言ってしまえば動画投稿者と視聴者の問題だしね。いや、動画と限らないな。何か創った人、それを観る人の関係でのずーーーーっと続いてきた問題じゃねーかなと思う。

 創ったものへの言葉は褒め言葉だけじゃない。批判、指摘、または罵倒や貶しがある。批判のないところに成長もない、だったか、まあそんな言葉があるように、批判は実はありがたい。けれど、だからって批判を受け入れるには色々と余裕がいる。批判の言葉は大なり小なり人を傷つける。

 見る立場なんだから、何言ったっていいだろう、というのは間違いではない。きつい言葉があるから気づく、というのは確かにある。でも同時に、その言葉で人を殺すのも、作品を殺すこともある。もう辞めた、とか、嫌いになる程度ならありふれすぎていて気づけないくらいかも。

 では逆に、創った側の人が自己弁護することは、作品以外で言葉を発することは、どこまでありか?今回のはその問題の過激な一例じゃないかなー。百科の掲示板を眺める限り、弁護できないことが紛れ込んでいるから、問題が人格のほうか、動画と視聴者の普遍な問題か、どちらが大になるかわからないけれど。


 以下さらに自分用のメモ。以前に、ニコニコ動画に関してなにか感想書こうと思いつつメモだけして放っておいたものに次のがある。面倒なのでこの際に整形しないでそのままコピペすると、

感想
コメントを書き加えた時点でオリジナルが変質してしまうという問題。オリジナルの上にコメントが乗っているため、既存の媒体と違って、他者のコメントを無視して自分だけの解釈にこもることが難しい。オリジナルに立ち戻るとき、かならず他者の解釈が目に入ってしまう。
おもしろいと述べるのは難しい。おもしろいものにおもしろいという言葉を使わずにおもしろいと表現するのは難しい。しかし、つまらないことにつまらないという言葉を使わずに表現するのは簡単。おもしろいけれどここが、というコメントが100あればそれはあらしこめになる。
といったあたりか?

以上。これは視点が2つくらい混ざっている。およそ上半分はセリフなしな動画(3D東方なんかでよく、手書きでもたまに)を主眼に、一般の動画でのコメントによる他者の解釈を向いている。2、3回同じ動画を観にいったとき、コメントがあるとその都度自分の解釈が影響されて変わってしまう。浸れない。コメントがあるからおもしろい部分と、しかしコメントがあるから敬遠してしまう部分とについて。
残り半分は動画に限らず感想全般でそのまま。同時に見るという形態上、ニコニコ動画で顕著だけれど、昔2chでも同じようなことがあったなぁとなぜかしみじみと。

 今回のと関連しているのは後者。言葉を受けるのは創った側の一人に対し、言葉を発するのは万にだって届く。ネットのない時代は、映画にしろ紙媒体にしろなんにしろ、フィルタがあったと思う。けれど、ネットはそのフィルタを取り除いた。一人で万を相手にできる。これはとてつもないメリットで、けれど反作用も大きい。

 見る側見せる側として、この問題はしょうがない問題なのか?発信する側が多くの負担というのは当然だと思えて、しかし今はその負担が一方的すぎるように思う。でもどうしようもないのかなぁ、なんかなぁとうだうだが自身の現状。

 だから、いまなおyoutubeのほうが日本でもユーザー多いのかもなぁ(あまりに放言だが)。コメントあることによるメリットをどう評価するか。今回のはニコニコ動画のコメントのマイナスの部分が極端に現れたということじゃないかなと思う。

 あーしかし、だからどう、ということにつながらない。どうにもまとまらない。

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