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2010年10月の4件の投稿

感想:桐咲キセキのキセキ 著:ろくごまるに

 桐咲キセキのキセキ
 著:ろくごまるに 絵:渡会 けいじ  GA文庫

 なんとろくごではないか!
 ということで、発売に気づいたときには既に10月だったような読み終わったのはしばらく積んで熟成させた末の今日だったような。そんな過程あれどとまれろくごまるにの新刊を読み終わり。

 表紙からしてチェーンソーぶん回す少女と少年の話なんかなと思ったらそんなの序章だけでしたよ。描写と会話がまさにろくごであってろくごの香り。完全シリアスな詰めの話かと肩に力入ったらすかされる。ついつい頭を使わされてしまう一方でとぼけた会話が楽しい。なんと普通っぽい少年と少女が主役でもしや過去の光景の少女はキミなのではになって甘酸っぱくなんてありえるのですか、異能でもSFでもなく身体能力と頓知なバトルで突き進むのかいなとテンションだだあがり。

 んが、最後ではちょいとノーマルから逸脱。悪魔ってのがただの言葉じゃなくて普通でない世界に突入とは思わなんだ。それでも駆け引きとテンポはあいかわらず。もしや隠された能力覚醒でばーんなんてありふれた、しかしろくごがやると天地がひっくり返りそうな展開があるのやもともやもやしたがそんなことはなかった。理由と理屈が楽しいのぜ。

 さて、露骨に語られない存在たちのために世界がまだ確定してなくてこの物語と世界をとらえ切れないが、一つはっきりしていることもある。封仙でないろくごを読んで自分は楽しめるだろうかと不安多量であったが、杞憂として吹き飛ばされた。大丈夫。以後もろくごを追っていける。

 そうだ。イラストについても。挿絵は文体と会話の気の抜けようとしては合っているけれど、緊張感としてはいまいちあってないかもねと思ったな。ただ最後の一枚のような場面はいい感じ。かわいいとも凛々しいとも美人とも表現に合う言葉が浮かばないが、あの一枚と表紙はいいねと思った。男とあとはバトルのような緊張感はまだ、あっているという感はいまいちかなというところ。

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日記:買うの確定、プレイと感想は未定

 2ヶ月ほどblogはまったくご無沙汰でありました。単純にちょいと忙しくなったというのもあるのだけれど、ただまあ、不思議とtwitterのほうには書き込めていたり。障壁が違うのかな。または、twitterだとフォローしている人の言葉を常に目にするから言葉がでやすいのかも知れない。ほとんど絡まない人になっているけれど。

 さて、一度更新するとその直後は多少活発に書いたりするものだけれど、最近はどうも東方SSもあまり読んでないのでまた長く沈黙するかもしれない。ということで、おそらく次に感想書くんじゃないかなーと思われるエロゲのバナー貼った記事を作って置いておこうと思う。

『ヴァニタスの羊』応援中!

 うむ。どうも、途中で切れてなんか怖いことになってしまっているようだ。ま、いいか。

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虐殺器官

 虐殺器官
 著:伊藤 計劃  ハヤカワ文庫JA

 虐殺器官というタイトルを見、そしてあらすじと帯の推薦文読んだときから興奮してしまった。内容について、この社会という存在自体を虐殺器官とみなすとはなんて社会に対して皮肉な、しかし否定できない視点であることかと。そんな中身への推測をもって読み始めたが、描かれる器官は自身の想像のさらに数段以上も掘り下げられた虐殺の器官だった。そもそもなぜそれが、、をさらに先に進めたものであった。なにがそれであるか、この話には見事に射ぬかれたぜ。けっこうにどんぱちでぐろかったりもするが。何がそれで、なぜ虐殺を起こしているのか、示された言葉に読み進める手が数秒とまるほどに、射ぬかれた。

 SFとして描かれる世界に生きる暗殺任務につく軍人による一人称であり(一人称がぼくというのがまたおもしろい)、さまざまに今はまだ到達しえない技術や装備が存在する。しかし、それらギミック自体やそれによって可能なことそれ自体が本質ではなく、人間とその社会自体をえぐり出すために使われている。人と作中世界ひいては今の世界を描くための道具であって道具それ自体を描くのが主ではない。このSF世界と道具の使われ具合が実に気持ち良い。解説にあった本人インタビューの、今現在の人間しか考えていないという言葉の実行具合が素晴らしい。この人間社会への観察は、波長があったのもあって、可能性を確かに突きつけてくると感じる。仮想の数十年先の未来を描きながら、しかしこれは今現在の人間社会だ。

  ついで、個人的な事柄だが、読んだタイミングとしてなかなかおもしろいときに読んだ。「思考と行動における言語」を読み終わったはいいがなにいってんだかようわかんねーなーと外在的と内在的と抽象段階とが片隅にくすぶり続けていたから、作中の会話がおもしろい。認識と言語に関する言葉を先に読んだ本の面からみなそうとする動きが頭の中にあった。外在と内在の例を突きつけられた感もあった。よいタイミングであった。

 この著者の作はもうこの世に増えないのだという事実が残念だ。

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思考と行動における言語

 思考と行動における言語
 著:S.I.ハヤカワ 翻訳:大久保 忠利  岩波書店

 なんとも長期に寝落ちを繰り返しながら読んだために、なぜこの本を読もうと思ったかの動機の部分は既に忘れてしまった。ページとして前の部分の記憶もずいぶんと抜け落ちてしまっている。ただいくつか、それでも残っている部分が何箇所を下に羅列する。

・ 小説の種類について、事実によって感情を想起させるものと、感情を直接に言葉で指定するものと。娯楽小説から文学への段階。読者へ感情を伝える。
・ 記号と事実およびその対象物の実在とが同一ではないこと。けれどなお、記号によって示される事物一般について人は誤解しやすい。例えばある職や人種の人間誰しもに同じ型をはめて考えその人個人を見ない。
・ 感化的内包。言語はそれ自身で閉じてなく、言語によって抱くイメージを言葉自身に含んでいる。
・ 報告、推論、断定。事実と推論の違い、区別。重要なのは事実であって、しかし人はそれに色をつけ、事実ではなく推論と断定をより自然に受け入れ使いがち。
・ よくよく政治家という語で一緒くたにする。しかし、事実は政治家1、政治家2、、、、である。また同時に、主張と人柄とは別である。Aさんがaを述べたときに賛同するのならばBさんがaを述べても賛同するはずである。しかし、一部の人達はBさんが言ったからという理由でaという意見をまったく考慮せず受け入れない。
・ 抽象の段階。抽象の段階を意図的に上げた会話は、相手を煙にまくには使える。これは普段、自ら実行してされていることを意識する必要がある。
・ 前記号的使用。意味のない会話の理由。抜粋P.90「人はなんでもないことを話し合い、それによって友情を築きあげる。話の目的は(略)情報を伝達することではなく、親交の確立にある。(略)話題の選択(略)一致が直ちに得られる話題を注意して選ぶことである。(略)どんなに平凡なきまり切ったことであろうとも、新しい一致が得られるごとに、初対面の懸念と猜疑心は拭い去られ、友情の可能性が増す。」
・ 歴史と文学は教養のみにあるのではない。ある文化圏でのコミュニケーションの能率を高めるために必要な手段。
・ T.E.ヒューム 誰でもよく知っている事実だが、普通の人は事物をありのままに見るのでなく、ただある決まった型を見るだけだ。
・ 科学としての分類および真理と社会でのそれとの違い。社会では外在的な事実そのものではなく、個人および集団内での内在的事実で真理を決める。ただある意味科学と似ているのは、時代と集団によって真理が変わる。
・ 多値的考え方。ある行動に対し、なぜその行動をするに至ったかへの視点を忘れない。
・ ネズミの神経衰弱の実験と人の類似。最後、物事の選択に際して融通が全くなくなる。柔軟性も現状の分析で変化をみることせず、過去に行った行動をひたすらに繰り返すようになる。

 ただ少なくとも半分より後ろは、環境や組織など周辺環境などによって形作られた自身のなかのイメージではなく、常に事実を見ることを意識せよという主張の繰り返しに思える。人がどれだけ言葉を内在的なイメージで語り、言葉に含まれる一般化したイメージで判断し、それを当然とした世界で生きているか。それによってどれだけ他人にコントロールされて事実を見ない存在であるか。繰り返し繰り返し、例を変えて述べられ続けているように思う。

 コミュニケーションとしての一致をもって安心を得るための言語、感化的内包として言葉に含まれるイメージの利用、感情を創造するという小説の目的、記号に踊らされず事実をみろという例。まとめをまとめると印象はこんなかな。またそのうち、思い立ったように読み直したいものだ。


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