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思考と行動における言語

 思考と行動における言語
 著:S.I.ハヤカワ 翻訳:大久保 忠利  岩波書店

 なんとも長期に寝落ちを繰り返しながら読んだために、なぜこの本を読もうと思ったかの動機の部分は既に忘れてしまった。ページとして前の部分の記憶もずいぶんと抜け落ちてしまっている。ただいくつか、それでも残っている部分が何箇所を下に羅列する。

・ 小説の種類について、事実によって感情を想起させるものと、感情を直接に言葉で指定するものと。娯楽小説から文学への段階。読者へ感情を伝える。
・ 記号と事実およびその対象物の実在とが同一ではないこと。けれどなお、記号によって示される事物一般について人は誤解しやすい。例えばある職や人種の人間誰しもに同じ型をはめて考えその人個人を見ない。
・ 感化的内包。言語はそれ自身で閉じてなく、言語によって抱くイメージを言葉自身に含んでいる。
・ 報告、推論、断定。事実と推論の違い、区別。重要なのは事実であって、しかし人はそれに色をつけ、事実ではなく推論と断定をより自然に受け入れ使いがち。
・ よくよく政治家という語で一緒くたにする。しかし、事実は政治家1、政治家2、、、、である。また同時に、主張と人柄とは別である。Aさんがaを述べたときに賛同するのならばBさんがaを述べても賛同するはずである。しかし、一部の人達はBさんが言ったからという理由でaという意見をまったく考慮せず受け入れない。
・ 抽象の段階。抽象の段階を意図的に上げた会話は、相手を煙にまくには使える。これは普段、自ら実行してされていることを意識する必要がある。
・ 前記号的使用。意味のない会話の理由。抜粋P.90「人はなんでもないことを話し合い、それによって友情を築きあげる。話の目的は(略)情報を伝達することではなく、親交の確立にある。(略)話題の選択(略)一致が直ちに得られる話題を注意して選ぶことである。(略)どんなに平凡なきまり切ったことであろうとも、新しい一致が得られるごとに、初対面の懸念と猜疑心は拭い去られ、友情の可能性が増す。」
・ 歴史と文学は教養のみにあるのではない。ある文化圏でのコミュニケーションの能率を高めるために必要な手段。
・ T.E.ヒューム 誰でもよく知っている事実だが、普通の人は事物をありのままに見るのでなく、ただある決まった型を見るだけだ。
・ 科学としての分類および真理と社会でのそれとの違い。社会では外在的な事実そのものではなく、個人および集団内での内在的事実で真理を決める。ただある意味科学と似ているのは、時代と集団によって真理が変わる。
・ 多値的考え方。ある行動に対し、なぜその行動をするに至ったかへの視点を忘れない。
・ ネズミの神経衰弱の実験と人の類似。最後、物事の選択に際して融通が全くなくなる。柔軟性も現状の分析で変化をみることせず、過去に行った行動をひたすらに繰り返すようになる。

 ただ少なくとも半分より後ろは、環境や組織など周辺環境などによって形作られた自身のなかのイメージではなく、常に事実を見ることを意識せよという主張の繰り返しに思える。人がどれだけ言葉を内在的なイメージで語り、言葉に含まれる一般化したイメージで判断し、それを当然とした世界で生きているか。それによってどれだけ他人にコントロールされて事実を見ない存在であるか。繰り返し繰り返し、例を変えて述べられ続けているように思う。

 コミュニケーションとしての一致をもって安心を得るための言語、感化的内包として言葉に含まれるイメージの利用、感情を創造するという小説の目的、記号に踊らされず事実をみろという例。まとめをまとめると印象はこんなかな。またそのうち、思い立ったように読み直したいものだ。


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