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自由からの逃走

 自由からの逃走 新版
 著:エーリッヒ・フロム 訳:日高六郎   東京創元社

 なにをきっかけとしたか忘れたが、長い積み本時代の後に読みきった本。どこかでの紹介で知って買ったと思うが、理由は覚えていない。ただ、タイトルと作者の国と時代とに興味をひかれたのは確かと思う。民主主義の制度においてヒットラーが選ばれたということはよく言われる話。そのことについて何か説明として書かれているのではないかという期待。また現代の日本における政治への無関心と放棄へ繋がる何かがあるのでは?といった期待。その動機がこの自由からの逃走という本を読み進める動機となった。

 説明としてこの本はルター派、カルバン派の時代まで遡る。当時の社会と当時のプロテスタントの教義自体が自由からの逃走を肯定していたのだという分析を述べる。その後、歴史や社会分析からフロイト派の心理分析に重みが移っていく。サドとマゾ(権威主義的)からナチの社会説明に至るのは、部分としてはわかるがすべてかと受け入れるのは難しい。ただ、個人の心理から社会を分析する姿勢は、特にその必要性については説得される。個人の心理から全体を説明するというスタイルのため、個人がつくる社会はともかく、社会に対する個人の反応に関してはわかりやすく頷きやすい。サドマゾにおける相手への依存と一体化が、下層階級個人の社会組織への一体化の説明となり、ヒットラーに対する国外からの批難に対し反ヒトラー者であっても反発という流れは実に説得力がある。

 気になった部分を引用。evernoteに保管する。んー、ちょっと引用が多すぎてなにかに引っかかるような気がしないでもない。

P.130

 以上われわれが主張したことは、資本主義的生産様式が人間を超人間的な経済的目的のための道具とし、プロテスタンティズムによってすでに心理的に準備されていた、禁欲主義と個人の無意味の精神とを増大させたということである。しかしこの主張は近代人が犠牲的態度や禁欲主義によってではなく、極端な利己主義と自利の追求によって動かされているように思われる事実と矛盾する。客観的には自己以外の目的に奉仕する召使いとなりながら、しかも主観的には、自分の利益によって動いていると信じている事実を、一体われわれはどのようにして解決できるであろうか。プロテスタンティズムの精神と、近代的な利己主義の信条とをどのように和解させることができるであろうか。

P.136

 人間はたんに商品を売るばかりではなく、自分自身をも売り、自分自身をあたかも商品のように感じている。筋肉労働者はその肉体のエネルギーを売り、商人や医者やサラリーマンはその「人格」を売っている。かれらは、その生産物や、その奉仕を売るためには、一つの「人格」をもっていなければならない。この人格はひとに気にいるものでなければならない。しかしそれ以外にも、その人間は多くの要求に応じなければならない。かれはその特殊な地位が要求するエネルギーや創意やその他いろいろのものをもっていなけれならない。商品と同じように、これらの人間の性質の価値をきめるものは、いや、まさに人間存在そのものをきめるものは、市場である。もしある人間のもっている性質が役に立たなければ、その人間は無価値である。

P.210-212 合理化

 かれは-中略-、ほかの権威ある意見をただくりかえしているだけなのを忘れ、この意見はかれ自身の考えで到達したものと思い込んでいる。
-中略-
 普通のひとは博物館へやってきて、レンブランドなどの有名な画家の絵を眺めると、美しい印象的な絵であるという。しかしかれの判断を分析してみると、かれはその絵にたいしてなんの特別な内的反応も感じておらず、かれがその絵を美しいと考える理由は、その絵が一般に美しいものとされているからであることがわかる。
-中略-
 にせの思考についていくらか例をあげたが、これらすべてにおいて、問題はその考えが自分の思考の結果であるかどうかであって、その考えの内容が正しいかどうかではない。-中略-にせの思考はまた、まったく論理的合理的でもあろう。にせの性格は、必ずしも非論理的な要素のなかに現れるとはかぎらない。このことは、ある行為や感情が、じっさいには非合理的主観的な要素に規定されながらも、それを合理的現実的な地盤で説明しようとする合理化を研究すればわかる。

P.238-239

 増大する社会的不満は外部へ反射することになり、それは国家社会主義の重要な源泉となった。すなわち旧中産階級の経済的社会的運命を認識するかわりに、その成員は自己の運命を意識的に国家と関係させて考えた。国家の敗北とヴェルサイユ条約は現実の不満――社会的不満――がすりかえられるシンボルとなった。
-中略-
 ヴェルサイユ条約にたいする憤りは下層中産階級のうちに根ざしていた。そして国家的公憤は社会的劣等感に投影する一つの合理化であった。

P.244-245 ヒットラー「我が闘争」からの引用部

 「大衆が欲するのは強者の勝利と弱者の殲滅あるいは無条件降伏である」。「弱い男を支配するより強い男に服従しようとする女のように、大衆は嘆願者よりも支配者を愛し、自由をあたえられるよりも、どのような敵対者も容赦しない教義のほうに、内心でははるかに満足を感じている。大衆はしばしばどうしたらよいか途方にくれ、たやすく自分たちはみすてられたものと感じる。大衆はまちがった原理もわからないので、かれらは自分たちにたいする精神的テロの厚顔無恥も、自分たちの人間的自由の悪辣な削減も理解することがない」。
-中略-
一日のうちでいかなる時刻が政治的な大衆の集会にもっとも適しているかという問題を論じて、かれはいう。「朝や日中は、ひとびとの意思の力は、もっとも強いエネルギーで、自分とことなる意思や意見によって強制される試みに反抗するようである。これに反し夕方には、より強い意思の支配的な力にたやすく屈服する。-中略-」。

P.310

 われわれがプロテスタントやカルヴィニズムの教義を分析して明らかになったことは、これらの思想が新しい宗教の帰依者のあいだで強力な力となったのは、それらの思想が、それを教えられたひとびとの性格構造のなかに存在していた、欲求や不安に訴えたからだということである。いいかえれば、思想が強力なものとなりうるのは、それがある一定の社会的性格にいちじるしくみられる、ある特殊な人間的欲求に応える限りにおいてである。

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